奥御殿とを結ぶ連絡路です。
好文亭の通路はとても狭く作られているました。
これは武器を持った敵が乱入した際、その動きを制限するねらいがあったとされているそうです。
廊下の左側に篠で作った格子窓があります。
外からは窓であることが判らないように工夫されているからだそうです。
奥殿から茶室へ通る2畳の小室でした。
中に小坊主が控えていて、奥と茶の席との連絡にあたったそうです。
室内の杉戸には古今集の和歌が華麗な色紙・短冊に書かれてありましたが火災により損傷した為、原画は藩医小松玄甫、復元は東京芸術大学の先生があたられたそうです。
18畳の総板張り(漆塗り)の広間です。
斉昭は藩内の家臣(80歳以上)、庶民の老人(90歳以上)を招いて慰労の催しをされたそうです。
いったいその時代長寿の人は、何人くらいいたのでしょうか?
不思議だ・・・・
藩主が来亭して、この室にいるときは、何かと用務もなさっていたらしい。
部屋には床の間を設けず、竹の柱だけを下げ、極めて簡素に作られていた。
でも天井は格天井でした。
左右の間が見えるようにしてありました。
現代のような網戸の無い時代に、よく考えたな~と感心しました。
自然の材料を利用して作るなんて、考えた人は素晴らしい!
軒下に敷き詰められた黒石は和歌山県の那智石だそうです。
ガマの背に似た斑紋があるのでガマ石と呼ばれる大きな履脱石は、2.4m×1.6mあり谷田の羅漢寺にあったものをここに移設したとされているそうです。
斉昭自筆の『好文亭』の扁額が掲げられています。
東西3間、南北6間あるそうです。
天井は杉皮網代張りなのだそうです。
とてもダイナミックな網代でした。
ここで文墨雅人がよく集まり詩歌を作り書画を揮毫したそうです。
西塗縁の北側に接している四畳半の一室です。
好文亭に招かれた人が少し休んだり、茶席にでる前に、静座してし心気を整える部屋だったようです。
この室から茶室に至るナゲシに、斉昭公の歌が彫れらた円形の板額がかけられていました。
杮(こけら)と柿(かき)の違いわかります?
同じ字に見えますが実は違います。
その違いは、ご自分でお調べください。
薄い板を何枚も重ねて葺いているのです。
これで雨漏りのしない屋根になるなんて
すっごい事と思いませんか?
実際の屋根もこのようになっておりました。
正面8畳の正室になっているそうです。
東南西三面からの眺めは絶景です。
この建物が出来た当時は、遠く筑波のの峰や大洗の松林が望めたようです。
床柱は、島津藩主 島津斉彬(しまづなりあきら)から贈られたサツマ竹が用いられたそうです。
建設当時の建物が火災によって焼失してしまった事は、とても残念です。
このサツマ竹床柱の節は、漢字「武士」の画数にちなんで11個ある
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