高室家は甲斐源氏の小笠原一門で、武田氏に仕えていたそうです。
江戸時代初期より地域を代表する家柄で、代々医薬業を営まれていたそうです。
周囲をめぐる水路や土塀、屋敷地東側に広がる菜園など付属施設が現存している、江戸時代以来の屋敷構え全てを伝える貴重な遺産だそうです。
長屋門に入る手前の石積水路に石橋がかけられています。
長屋門は文久3年(1863)の建築で、ケヤキ材で頑丈なつくりとなっていました。
現在敷地面積5000㎡もあるそうですが、東外側に一部譲渡した記録が残っているので、当時はかなり広い屋敷だったようです。
玄関を明治3年(1870)に増築されたようです。
玄関が3つあり、写真の玄関は、偉い方々やその家のご主人しか通れなかったようです。
その右隣に薬を買いに来られる人達の玄関、家人は一番右側の土間玄関だったようです。
元禄年間の建築と伝わっているようですが、現状のような書院風つくりに改修されたのは安政2年(1855)と推定されているようです。
金唐紙(?)の天井は、明治に入ってからでしょうか?
金唐紙の技法は、一時途絶えておりましたが、上田 尚さんが復活されました。
東京王子にある紙の博物館に、版木がおかれてます。
上野にある旧岩崎邸の洋館は、この金唐紙が沢山壁に貼られております。
この高室邸の金唐紙(?)の天井は、江戸時代には貼られていなかったと推測されるので、修復作業の段階でどうなっちゃうんでしょうか?
この天井は、金唐紙でなければ、一体なんという天井なのでしょうか?・・・・・
明治10年(1877)建築されたそうです。
堅牢な2階建て土蔵造で、軒高が高く見栄えのする外観です。
隠居所とも呼ばれ、内部は蔵座敷として伝統ある旧家ににふさわしいつくりになっているそうですが、あいにく土蔵の中は見る事が出来ませんでした。
弘化3年(1846)の建築とされているそうですが、
明治41年(1908)に旧建物を踏襲して改築されたものと推定されています。
本が沢山あったようです。
明治41年(1908)の建築だそうです。
古式な彫刻彫りの意匠を有す屋敷内唯一の堂建築だそうです。
小高い土盛り状の基壇を築いて設けられているそうです。
旧家に相応しい施設だそうです。
弁才天は財宝神としての性格が強いようです。
商売繁盛を願って建てられたのでしょうか?
一番痛みが激しく
現在1階部分は鉄板で保護されています。
安政4年(1857)の建築とされています。
土蔵造りの2階建てで、外部の壁は軒裏まで塗った漆喰塗り仕上げだそうです。
用途に必要な装置を設けた施設として貴重との事です。
こちら側の1階壁は板張りでした。
建築当時は、何だったのでしょうか?
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