扉が閉められており
内部がよくわかりませんでした。
鍵が掛かっているようでしたので
何か入っていたのでしょうか???・・・
平家の落人村として有名な祖谷(いや)の民家です。
平国盛の子孫といわれる阿佐家に近く、険しい山肌に、しがみつくように建っていたそうです。
母屋18坪、隠居屋13坪、納屋8坪、いずれも茅葺降ろしで、18世紀後半の建築とみられているそうです。
母屋、隠居屋、納屋が一列に並んで建ち、祖谷の民家の特徴を現しているそうです。
母屋、隠居屋は土間のない二間取りになっていました。
部屋にイロリがとってあるのは、寒い祖谷地方の特徴だそうです。
父親が隠居して、長男に世帯をゆずると、隠居屋に移り住んだのだそうです。
丸亀藩御用の米倉で、金毘羅参詣絵図にも太助燈篭と共に描かれているそうです。
内部の柱の一部にある墨書きで江戸時代後期の建築と思われているそうです。
また 米俵の数取りに使った「玉」の字の落書きも見られたそうです。
義倉とは、平時に稲や麦を貯蔵しておいて、飢饉の際には種籾や食料の補助として支給する制度だそうです。
奈良時代には、すでに制度化されていたそうですが、その後廃絶したが、江戸時代になって再び復活し、各藩に設置されるようになったそうです。
この義倉は昭和15年頃まで機能しいたそうです。しかしその後維持管理が困難となり、ここに移築復元されることになったそうです。
昔の金毘羅街道沿いにあったアーチ橋は、角閃安山岩で作られているそうです。
この石は、古墳時代には畿内に運ばれ、石棺にも使われたそうです。
明治34年に築造されたものだそうです。
旧福井家のものだそうです。
明治中頃に造られたもので、四国では大変珍しく、当時としては贅沢なレンガを床に張ったモダンな建物だそうです。
今でも全く狂いが無く技術的にも卓越した石工の作品だそうです。
でも中を見る事が出来なかったので残念です。
讃岐の醤油造りは、文化年間(1810頃)に小豆島を中心に興り、東讃の引田(ひけた)、西讃の仁尾などの地域で盛んになったそうです。
香川県は、明治中期から昭和10年にかけて、全国第二位の生産量だったそうです。
ここに移築復元された建物は、引田町の醸造家で長年使用さてれきたものだそうです。
建物の一部には、18世紀後半頃とみられる梁材がそのまま使われているそうです。
奥に見える石倉は、大阪に出て事業に成功した、藤原兵太郎氏が大正4年に建造されたそうです。
茨城県稲田産の花崗岩を取り寄せてつくられたそうです。
かつて天皇のお写真を入れた奉安殿を思わせるような建物だそうです。
今の貨幣換算すると4千万円以上かかったようです。
切り石積、鉄扉両開、軒蛇腹付陸屋根は、異色な建物であったようです。
四国にも、有名な大阪城にも使われた石があるのに、わざわざ遠くから運んできたのですね!
高知県布師田に、明治初期に建てられた土蔵です。
間口3間、奥行2間、壁に7寸の暑さに土を塗り、その上を漆喰で仕上げてあるそうです。
屋根は鞘屋根いって二重になっていて、近所の家事の火の粉や大雨から土蔵を守っていたそうです。
このような土蔵は平野部に多く、漁村や山間部ではあまりみられなかったそうです。
この家は、切妻造本瓦葺12坪、宿組みなどの部材はすべて手斧で削られ梁と大黒柱は特に頑丈に造られていました。
上がり端の床は、漁でぬれた着物や道具の露を落とす為竹のすのこ張りになっていました。
周囲の石垣は強風を防ぐ役目をしているそうです。
これらは、生活の中から生まれた漁師の家の特徴だそうです。
明治38年にイギリス人ワサ・ダウン氏の住宅として建てられたものだそうです。
寄せ棟造り桟瓦葺き、2階建てで、下見板張りペンキ塗
になっています。
兵庫県神戸市にあった明治後期の洋館の特徴をあらわしているそうです。
『わらや』です。
香川県のおいしいうどん店の中にも登場するほど
うどんのおいしいお店です。
丁度お昼頃になりましたので入って見ました。
甲府あたりにある讃岐うどんのお店の大は、そんなに多くないので大を頼んだら、結構な量でした。
こしも有り
のど越しもよく、おいしくいただきました。
これまで食べたうどんの中では
一番おいしいと思いました。
そこで、早速おみやげでうどんを買い
宅配便で送ってもらうことにしました。
平日でしたが、結構お客様が入っておられました。
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